「沖縄からのお客様」
(Tamu dari Okinawa)

バリを発つ4月11日、私は空港で大切な人と待ち合わせをしていた。
私がジョグジャで広報担当として手伝っている画廊が、沖縄の作家を招いたのだ。招いたというと偉そうだが、日本とは比較にならない物価の国インドネシアが、日本の作家を招待するのは非常に難しい。正確には
「ぜひとも我が画廊で作品を発表してください、けれど費用はありません・・・」 という勝手なお願いをして、運良くそれが聞き入れられたといったらいいだろうか。

 この沖縄(玉城)の造形作家、小川京子さんとは不思議な縁で今にいたる。最初に知り合ったのはバリ。1993年頃だったと記憶している。私がまだ愛猿のスギトを連れてUBUDの街をバイクで流していた時期である。親しくしているUBUDの画廊に寄ったとき、そこにいたのが小川さんだった。猿を引き連れた日本人らしき者を見て、話しかけてきてくれた。お互い「もの作り」していることもあり、話が合った。そのときには彼女も短い日程の旅だったので、住所交換して別れただけだった。

 そしてその3年後かにUBUDで竹に関するコングレスがあり、自然素材を編んで作品を作る彼女はその会議に出席すべく、またバリを訪ねたのだった。彼女から宿の手配を頼まれ、会議場の近くで宿を予約しておき、再会した彼女と1日一緒に過ごした。そしてその後は、まったく音信不通になっていたのだ。

 

小川l京子作品

小川京子さんの作品。
玉城の海岸を180度見渡せる、とんでもなく「上等」な場所にスタジオを構える彼女の作品には、沖縄の人々が「神の宿り場」と呼ぶクバを使ったものや、海で採れたサンゴなどがやさしく使われている。彼女の、自然への敬虔な想いが伝わる。

 

 

 ここからが縁の不思議なところ。1999年、まだ私がバリにいたとき、日本のテレビ局番組『道浪漫』のバリでの撮影を手伝うことになった。97年に出版していた私の著書『バリ島遊学記』を読んだプロデューサーが、内容のコーディネートと通訳を依頼してくれたのだった。番組の主役は宮本亜門、日本の物価で仕事が入ったことも嬉しかったかれど、あの宮本亜門に会えるチャンスがあるとは!! 世界を駆け巡る売れっ子演出家は、まったく気取ったところのない人間味豊かな男性だった。バリで質素に暮らす私の家にまで訪ねてくれ、撮影の合間にはたくさんの話をした。わずか10日ばかりの取材ではあったけれど、亜門氏は私がバリに魅かれた理由も充分に理解してくれた。

 宮本亜門氏が沖縄玉城に家を建てた話は、日本でも有名だろう。そう、玉城。私がバリで会った小川京子さんも玉城。なんと、宮本亜門氏が選んだ玉城の土地は、小川京子さんの「スタジオゆい」がある目の前だったのだ。バリで撮影を済ませ、玉城に戻った亜門氏は、お隣さんである小川さんが過去に何度もバリに行っているのを知っているので、早速バリの土産話になった。そこで私の話になったらしい。

「でさー、取材の手伝いで、むこうにいる変わった日本人と会ったんだよー。猿飼ってるの」
「え?それって、もしかして、ミドリさんっていうんじゃないの?」
「エーーーーッ!! 小川さん、彼女のこと知ってるの!?」
ここで「廣田緑-小川京子」の縁が、亜門氏をはさんで復活したのだった。なんという偶然・・・。亜門氏と出会っていなかったら、おそらく小川さんと再会することはなかったのではないだろうか。

そして昨年4月、久しぶりに帰国した私は早速玉城の亜門邸を訪ね、数年ぶりに小川さんとも再会した。その後1ヶ月を玉城で過ごすチャンスを与えられ、インドネシアそれもバリにそっくりな土地の空気を味わいながら、毎日小川さんのスタジオで食事をいただいた。そんなときに私のジョグジャで手伝っている画廊の話になり、展覧会の話で盛り上がり、その時の夢が実現に向かい、現在にいたるわけだ。

彼女は自らを「バスケット・メーカー」と名乗る。ロタン、沖縄で採れるクバなどを素材に作品を「編む」。アジアの国々から採れる素材で編んできた彼女が、昔から望んでいたのは「その土地で、その土地の素材で編む」ことだった。10年前の出会いが、今こうして強い縁となり、2人の最初の出会いの場に戻って一つの形になろうとしているのが私にはとても嬉しい。現在彼女はジョグジャの南部にある海岸で制作している。素材探しで向かったその地で、自分の呼吸にぴったりの場所を見つけた。確かに、そこは海があり、山があり、たくさんの植物が育つ、「ジョグジャの玉城」のような場所だった。今、彼女は生き生きとジョグジャの空気を吸って制作している。これが形になり、我々の目を楽しませてくれるのは5月20日からだ。


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