日本からの調査」
( Penelitian dari Jepang)

 日本で唯一アジアの美術に焦点を当て、質の高い作品を紹介しているのが博多にある福岡アジア美術館。ここではインドネシア人作家の作品も何点かコレクションしている。また博多の街ぐるみで開催するアジア・フェスティバルなどもあり、ワークショップや公開制作などでも毎年インドネシアから数人の作家が招待を受ける。

 私がバリで暮らしている頃に開館したこのアジア美術館の学芸課長だったのが後小路雅弘さんだ(後はU氏と略す)。バリで暮らしながら、なんとかインドネシアと日本との間で役に立ちたいと思った私は、面識もないU氏に、97年に出版した私のエッセイ集『バリ島遊学記』と手紙を送り、今後アジア美術館の調査などでインドネシアに来られる際には是非お手伝いしたい旨を伝えたことがある。
 当時まだ若かった私に、U氏は丁寧に返事をくださり、仕事として私を使うこと(公立美術館から個人に仕事を依頼すること)は難しいこと、ハートTOハートで作家と接したいから、言葉の障害はあってもできる限り作家と直接対談するようにしていることなどを説明してくださった。はっきりと記憶していないが、1998年頃だったと思う。
 それ以来手紙やメールのやり取りが続き、今回帰国の際にようやく本人にお目にかかる機会を得た。博多は高校の修学旅行で通過したことがあるだけ、今回の訪問が初めての目的ある博多への旅だった。忙しいスケジュールを縫い、U氏はアジア美術館のある博多リバレインまで来てくださり、現在教鞭をとっている九州大学の大学院の学生2人も紹介してくださった。私は昨年ジョグジャで企画したインドネシア作家美術展の第2弾を名古屋で開催することが決定したときから、なんとかしてこの展覧会を福岡に巡回させたいという思いが強くあった。アジア美術に理解と興味のある福岡で、私と友人のキュレーターが選考したインドネシア現代美術の若手作家たちを紹介したかったのだ。この件は私が日本に帰る前からメールを通してU氏に相談していた。そして今回の帰国にあわせ、思い切って福岡に発つことを決めたのだった。

 その後、今度はU氏がインドネシアにやってくることになった。彼はアジア美術館を出てからも九州大学でインドネシア近代美術の研究を続けている。今回はその調査でジャカルタからバリまでインドネシアの4都市を回り、50年代に活躍したシニア作家にインタビューしたいとのこと、是非私に通訳として手伝って欲しいと誘ってくださったのだ。ずっと前に私がバリから手紙でコンタクトを取ったことがきっかけで、今になりその夢が実現したのだった。
 U氏は私が福岡で会った大学院の学生2名を伴ってインドネシアにやってこられた。私はバンドゥンとジョグジャカルタで調査に同行。彼が会いたいという作家はインドネシア近代美術の重鎮たち、長くここに暮らしている私も会ったことのない伝説の人たちだった。そんな人たちの戦争時の苦労を生で聞くことができて私は一人で興奮した。もともとお爺ちゃんっ子だった私は、会うお爺ちゃん、お爺ちゃんがなぜかとても懐かしくいとおしい気持ちになった。帰り際にはやさしい言葉に涙ぐみそうになり、
「いかんいかん、私は通訳。プロに徹しなければ・・・」
とこらえた。

 バンドゥンで3日間、その後ジョグジャカルタに移動して4日間の計7日間を調査に同行した。ライフワーク的な調査なだけあって、U氏は休むことなく動き回る。食べる時間も惜しんで老いた作家たちからできるだけ多くの資料を聞き出そうとする。2人の学生も初めての国、日本とは違った気候の中、教授について一生懸命にノートを取り、作品を撮影している。私はこんな貴重な調査の通訳をできることをとても嬉しく思った。
 ジョグジャでは簡単な住所から過去の作家を訪ねるという、同行通訳というよりは探偵に近いような仕事もありワクワクした。名前だけは聞いたことのある老作家の一人を訪ねるべく、大体の場所まで行って周辺の人に聞き込みをしながらようやく本人を捜し当てたときにはとても嬉しかった。夜の突然の訪問にもかかわらず、老夫婦が暖かく笑顔で出迎えてくれたときにはなんだか子供の頃に見た桂小金次の『それは秘密です』じゃないけど、会いたい人を探してくれるTV番組を思い出して一人勝手に目頭が熱くなったりもした。調査のおもしろさ、大変さ、何か手がかりを得たときの充実感、感動、興奮、いろんなものを体験させてもらった7日間だった。U氏に感謝。 

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