沖縄の展覧会」
( Pameran di Okinawa)

 最後に日本に帰ったのは2002年、ワールド・カップが日本で開催されたときだった。2年以上日本へ戻らずにいたのは今回が初めてだ。7月上旬ジョグジャカルタ・アート・フェスティバルへ出品した後、私はすぐに日本へ発った。7月22日のことだ。
 今回の帰国には2つの大きな目的があった。その一つは沖縄で開催された国際美術展「東洋のまなざし・手の記憶」への参加。沖縄玉城に在住のバスケタリー・アーティスト小川氏が、この展覧会のシンポジウムのために私が親しくしているバンドゥン工科大学の美術学部教授アスムジョ氏を招待したことから話は始まる。小川氏は昨年私がジョグジャカルタに招き、benda.アート・スペースでワークショップと個展を実現させた作家だ。
 この国際展にはタイ、ベトナム、インドネシア、韓国などアジア諸国からも多くのアーティストが参加しており、初日にはシンポジムが予定されていた。沖縄サイドの実行委員だった小川氏がジョグジャに来た際にクラフトの問題、アジアの美術の現状について話し合ったことのあるアスムジョ氏(以下A氏と省略)を是非日本に呼びたいと希望し、今回のシンポジウムが実現した。
 A氏は私を経由して送られてきた展覧会資料に目を通し、すぐに承諾してくれたが、一言。 
「でもさ、シンポジウムはミドリの通訳でやってよ。英語でとなると思うことが話せないし」  そこで私もこの時期に合わせて帰国を予定し、沖縄へ行くことに決めたのだった。2年前に帰国した際にも不思議な縁あって沖縄の南端、玉城で1ヶ月を過ごしたことがあり、なぜかこの場所は私にとってバリのように懐かしい場所になっていた。そこにまた戻れるということも嬉しかった。
 私は名古屋から、A氏はジャカルタから台北を経由し、同じ日に那覇に着くことになっていた。私が2時間前に着き、国際線へ彼を迎えに行く。A氏はすでに通関してベンチに座って我々を待っていた。小川氏の車でまずは宿泊先の玉城へ。懐かしい2年ぶりの景色を味わう私と、初めて目にする沖縄の景色に見入るA氏。空港からはモノレールが走っている、2年前にはなかった風景だった。

 A氏は浦添美術館で開催された「東洋のまなざし・手の記憶」展のオープニングに合わせたシンポジウムの他に、別会場になった沖縄南部でのスライド・レクチャー、浦添市内にあるデザイン・アカデミーでの教育とデザインに関するパネル・ディスカッションにも参加した。ということは私もそれだけ同時通訳をしたことになる。
 もともと翻訳作業というのは自分の専門外のものでない限り、特に美術分野のものは大好きなのだけれど、同時通訳となると少々わけが違う。何度も聞き直していては観客が退屈する。ましてや今回のように大勢の人が出席しているものになったら、その流れにうまく乗せて通訳を進行させていかなければならない。相手がA氏という、もともと親しい人だったので、彼が長い話をしそうになった時にはこっそりと横腹をつついて、こちらの訳しやすい長さで切ってもらっていたからまだしも、それにしても真剣な美術談義を2時間以上休憩なしでやられた日にゃあ、こちらの集中力が限界に達する。頭の中をインドネシア語と日本語が行き交ううちに、脳みそが分断されたようなおかしな感覚になってくる。プロでも同時通訳の場合には一時間ごとに交代すると聞く。それをこんな私が一人でインドネシア語から日本語へ、日本語からインドネシア語へと両方をやらねばならないのだから、おかしくならない方がおかしい。

パネルディスカッション

浦添美術館のシンポジウム会場にて。
左から司会者、宮本亜門氏、アスムジョ、廣田。


 さらに、インドネシアでは尊敬する若きキュレーター、教授のA氏が、日本では世話の焼ける子供のようになってしまい、何から何まで私が面倒みなければならないような状態になったのも予想外で閉口した。そりゃシンポジウムの話だったら、私も真面目に通訳するけれど、
「レストランに入ってWCがどこかぐらい、自分で英語で聞けるだろうに!」
疲れてくるとこんなことにも腹が立つから人間の忍耐力ってたいしたことないなぁと反省する。  

もう一つ疲労の原因がある。委員会はちゃんとA氏にワンルームを用意し、私は私で別に宿泊場を準備されていたにも関わらず、独りが怖いのかA氏は言う。
「ミドリもここでいいじゃないか。一緒の方が動きやすいし」
確かに我々が一緒なら世話役の小川氏も送り迎えが少しは楽になるかと思い、私もやむをえずワンルームに一緒に泊まることになった。

 実はA氏、ハゲである。ツルッといくのではなく、サイドは長髪で常に帽子をかぶっているので、知る人ぞ知る(いや、かなりの人が想像はついているだろうが)落ち武者ハゲなのだ。私は彼の街に行くと、いつも家に泊めてもらっている。あるとき、多分彼も自宅で気を許していたのだろうが、起きぬけに彼の書斎に入った私は、風呂上りで帽子を抜いた彼の状態を拝ませてもらったことがある。そのことは彼も覚えているはずなのだけれど、彼は日本で帽子を脱がずに寝た。それも両手で帽子を抑えた状態で。だからなんだかこっちが申し訳ないというか、ヘンに気を使ってしまった。
「見てませんよー、どうせ私は知ってるんだから、脱いで安心して寝てください」
なんて言えないし、なんだかとっても気を使ってしまった。

 そんなこんなで沖縄での教授のお伴は予想外に疲れた。もちろん、それ以上に楽しいこともいっぱいではあったけれど、人の世話ってのはこんなに疲れるものかと痛感した。24時間彼のお伴をしながら
「もうそろそろ帰ってくれよぉー・・・」
と思ったりもした。だって、自分だって沖縄まで来てるのだから自由な時間が欲しい。結局は私が名古屋に戻る3日前に彼は帰国となった。小川氏と一緒に空港まで送り、別れる間際になってしまうとなんだかとても淋しい想いがした。人間って勝手なものだ。  そして一人の3日間はとっても自由な時間を玉城の台風の海とともに過ごし、南海からのパワーをもらって名古屋に戻ることができたのだった。

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