「チアキさんとヨノさん」
(Chiaki dan Bapak
Jono)
私はバリで暮らしているときから、ほとんど日本人の友人をもたなかった。意識的に日本人から離れるを避けるつもりはないけれど、バリという狭い土地で、同じ国民だからといって必ず仲良くなれる、あるいは気が合うというものでもない。バリ人と結婚でもしていて、同じ悩みを抱えているとかなら、そういう人たちどうし情報交換すれば意味はあるのだろうが、私の場合他の日本人とはほとんどなんの接点もない。そんな理由もあって昔から日本人の友人は少ない。
ジョグジャカルタに移ってからは、意識的にも何も、本当に周囲に日本人がいない状況になった。インドネシアでも有数のエリート校ガジャマダ大学には毎年20名ちかい日本人が在籍してインドネシア語を学んでいるそうだけれど、これも私には無縁の場所だ。
もともと私がジョグジャカルタへ移るきっかけとなった1999年のインドネシア教育文化省の奨学制度でジョグジャカルタの大学を選んだのは、美術専攻の私と、インドネシア語専攻のF君(当時上智大生)の2人だった。その1年間はたまにF君と会って酒を飲みながらそれぞれの近況報告をし合ったものだ。そして1年間をジョグジャで過ごした後、本来のフィールドであった人類学研究でF君がインドネシアの僻地に去ってしまった後は、ほとんど日本人の友人なしで過ごした。
その後、私はバリからジョグジャに移る決心をし、最初の1年はOLしてみたりもした。その会社の関係者でインドネシアに長いという日本人の爺さんがジョグジャに来た際、
「ジョグジャにいる若い皆さんから体験談など聞きたいもんですな・・・」
とジョグジャ在住の若者が集められた。私でもこんな爺さんからしたらまだまだ若者の仲間に入る。さらに仕事の関係ということで私の苦手な日本人の集いに付き合わねばならず、いやいやながら中華料理屋の会合に出席した。おもしろくもない爺さんの自慢話を聞かされて
「爺ぃ、若者の体験談聞きたいんじゃなくて自分の自慢話じゃんか!」
と今にも声が出そうになっていたとき、私の目に入ったのはF君の下宿で知り合い、数回F君との呑み会で会ったことのある青年だった。
彼も爺さんの話にうんざりしていたようで、私と一緒に
「こうなったらタダで思い切り食って呑んで気を晴らそう!」
と盛り上がったのだった。
それ以来、彼は今でも私の一番近しい日本人の友人である。そういえば彼もF君。私は日本にいたときから後輩というか、弟分の友人には非常に恵まれている。これは私の運かもしれない。このF君は私のWEBサイト作りの師匠でもあり、キャッチボール仲間でもあり、数少ない呑み友達、愚痴聞き役、風邪をひけば病院まで送ってもくれる、とても忠実でやさしい弟分なのだ。いつもいじめてゴメンなさい、とここで謝っておこう。
「チアキさん」というタイトルをつけておきながら、2人のF君の話が長くなってしまった。ここで話題をチアキさんに移そう。彼女とは昨年の12月、私が初めてキュレーターという立場で作った日本インドネシア現代美術展のオープニング会場で出会った。私よりも3つ年上のチアキさんはこの時すでにインドネシアに来て1年ほどが経つJICAのシニア海外ボランティアで、ジョグジャカルタのメディア系施設で指導をしているジャーナリスト。
小柄でしっかり締まったボディのチアキさん、なんか日本人っぽくないな〜と思ったら、17歳でLAの学校に入り、その後の16年間をNYで暮らしているという。話し方や身振り、初めて会った人との接し方からもやはりお国柄って出るもんだ。彼女からはまったくジャパン、ジャパンしたものを感じなかった。そしてサラッと馴染める何かがあった。親しい仲になれる人って、やはり最初の印象で決まることが多いのかもしれない。
まだ来場者の接待で忙しかったので、あまりゆっくり話せずに別れたけれど、わずかな時間で彼女とは今後も会えるな、と確信していた。そして私のそのカンは当たっていて、その後一緒に呑みに行ったり、映画を見に行ったりには彼女を誘えるようになった。もともとNYでレストランの取材番組を作ったりしたこともある彼女は、私が『ジョグジャ・サーフィン』という情報誌を出して一人で取材していることを知り、新しい屋台などの取材にも喜んで付き合ってくれる。
このチアキさんが最近、どうしても私に紹介したいから、といって、あるジョグジャの大きな旅行代理店の店長に引き合わせてくれた。彼女は私がボランティアで『ジョグジャ・サーフィン』を発行していることを知っている。自分もアメリカのTV業界で苦労を重ねてきた彼女には、今の私が自分のその頃の状態とダブるのか、いつもアイデアをくれたり励ましてくれる。今回はその応援の一環として紹介したい人がいるというのだった。
店長はヨノさん、50代半ばだろうか、しゃきしゃきしたやり手といった感じ、JICAとの関係が20年にもなるというのだから、日本からの信用もある人なのだろう。彼はチアキさんが私のことを話す前から『ジョグジャ・サーフィン』を知っていて、いつか編集長とは話したいと思っていてくれたらしい。
ジョグジャの老舗5ツ星ホテル内にある彼のオフィスをチアキさんと訪ねた。私たちの前に運ばれてきたコーヒーに、彼はさっとボトルを出してきて中身を注ぐ。それはなんと!私の一番の好物、マイヤーズのラムクリームではないかっ!インドネシアの物価に慣れた生活をしている私には、高級すぎるこのアイリッシュの酒を、コーヒーに入れてしまう太っ腹!ヨノさん、スゴイ!とまずは酒に感動。
チアキさんとヨノさんの3人で盛り上がり、私が情報誌を刊行するにあたって一番困っている広告取りを彼が全面的に協力してくれることになった。私には絶対に営業はむかないのだ。彼のようにホテルやレストランに広く知り合いのいる人にこそ、もってこいの仕事なのだから。
ヨノさんはジョグジャカルタ観光組合の会長さんでもあり、今年の秋にはジョグジャカルタのPRで日本へ行く予定もあるという。お互いに助け合いましょうね、って話で今回は落ち着いたけれど、今後いろんな展開のありそうな人と出会えたことはとっても収穫だった。そしてこれを書いている今、すでにヨノさんの紹介だといって、ジョグジャの5つ星ホテルのマーケティングから電話があった。スゴイ、ヨノさん、有言実行!
「アーティスト」だなんて言いながら、浮き草のような生活に将来の不安を覚えることも正直いってあるけれど、いくつになっても人との出会いが新鮮だったり、本当に心の底から楽しいと思える仕事ができたりするのは、自分の選んだ道が間違ってないからだよなぁ〜と、ちょっと安心できたりする。短い人生に本当に気の合う友人をいっぱい作る、自分のやりたいこと、自分だからできることを実現させる、これこそ本当の財産!なんて道徳の教科書みたいだけれど、チアキさんやヨノさんとの出会いは、本当に嬉しい出来事だった。

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